昭和43年10月26日 夜の御理解
久留米の教会に、ここの記念祭のお礼のお参りをしておりませんでしたから。今日むつやの車で送ってもらってから、お礼に出てまいりました。
あの信司さんが送ってくれましたが、車の中で信司さんがこういうことを話すんですね。有り難いなぁ、何時の間にそういうようなことが、この人の信心に身に付いていきよるじゃろうかという私は思わせて頂い、頂いたんですけれども。
先生この頃は、おかげで店の中に(あまり?)従業員の方が沢山おりますから、いわゆる若い社長さんで、やっぱりその店を仕切っていかなければならん(とに?)もう色々その、心にさわることが沢山あるというわけですね。
その本当に心が真っ黒なってもうこんな商売やめてしまおうかというような時すらあるぐらい。煩わしいことがありますと。ところが、この頃人事関係のことについては、おかげで、本当にこの心に引っかからんで済むようになりましたと。
色々な、えー、その本当に給料やる、給料払うて、やとうておる人からこういうことを言われたり、こういうことをされたり。というような時ですね、引っ掛かりますけれども、もう直ぐ、はーこれは自分がこまか証拠と思うてから、その心を広う持たせて頂く稽古をさせてもらいよりますが、この頃はね、それが楽しゅうなったという事を言うんです。
私はあの信心もね、もう折角信心させて頂くなら、あのそこまでは一つ神様を信じ、そして分かり、それを行じていかなければいけないと思うね。自分の心に引っ掛かる。ね、自分の心に何かガチッと来るような事がある。時には直ぐ、はー自分がこまか証拠とこう。
でそれをね、そう思わせて頂くと、その後にね、( ? )喜びがわくようになったということなんです。それが先生この頃楽しゅうなったとこういう。はー信司さんあんた大したことを身に付けて行きよるばいっち言うてから、そうですよ、ほりゃもうあんたがどうでも、あそこの社長さんとして、これからいよいよ(代をなしていく?)おかげ頂くためには、それをいよいよ大きなものにしていかにゃいかん。
けれどもこればっかりは、許されない。これだけは辛抱が出来ない。というようなことは又あろうけれども、そのしかしそういう時、一ついよいよおかげ頂かにゃいけんねって言うて、まぁところがその事に対してその、心の調子を合わせていけれるこつを覚える。ならその事を、自分の心がこまい証拠とこう分からせてもらえれるということがね、有り難い。
先程、「みえ?」さんが御心眼に頂いておりますように、★長い長いその靴を頂いたちいよったですね。そのそれが永瀬さんの奥さんが清掃をして下さったとこういうんですね。永瀬ということは永い瀬と書いてある。
ね、私共に、人生にはですね、そんなにおぼれるごたるところがあるはず絶対ないと、もう浅い瀬ばかりなんだ。それで私共はいつも足を、足元を汚しておる。しかもこの長い靴を履いておるなら、さえ履いとりゃ汚す必要はない。汚す事はない。
それを信心という靴を履かないために、いつも足を(ぬらい?)通し、または足元を汚し通しでおかげを受けられないといったようなことを、繰り返しておるようなことはないだろうかと。
ね、「上野愛子?」お前は一生、例えばもう足元汚さんぞと決めたら、足元は汚さんで済むぞ、ぬらさんで済むぞというお知らせじゃろうね、て言うてお話したとこでした。ね、それとてもやはり、神様を信じ、ね足元を汚す事がどんなにつまらんことか。またそれを汚さん修行がどの位有り難いことかという事が分からなければです、その信司さんじゃないけれども、はーこれは自分がこまい証拠という、思うて辛抱させてもらうその先にです。こういうおかげというか、喜びがあることを体験していけない。
私はもうそれを思うんですね。えー、本当にここで信心の稽古をさせて頂く人はですね、せめてそのくらいのところは一つ頂いていかなければね、いかんと。もう(そけさわり、こけさわり?)ね、もうそのくらいのこっであんた足元を汚してというようなことではなくてですね。
汚そうとしてもそれを汚さんで済む、ぬらさんで済む。ね、心にガクッと来るようなことがあってもです、直ぐ、はー自分がこまい証拠とこう、金光様を念じていくうちに自分の心の中に穏やかなものが頂けて。その先に、何か今までかつて(あげた?)ことのない、まぁ信心の喜びというものを感じれれるようになったと。それが今後楽しみになったという。ほんに有り難いなぁ。
ね、まぁ現在の合楽では、まずなんというてもむつやが一番おかげの頂き頭と思いますね。ここでは。それをですね、ちゃんとお母さん達がおる時以上の、信司さんなんか出来ていきよるという事実がある。そげんして自分の心を大きゅうしていきよるもん。
ね、お参りこそ毎日出来ませんけれどもですね、そういう事が本当に誰に教えられてもなしに出来ていきよる。やっぱりお母さんの信心の徳というもの残っているなぁと私は思うんですけれどね。
しかも、その若い社長がです、ね、自分より年上の、年配の(ばんそう?)のような、幾らもおりますから。なかなかいうこと聞かん時もある。もうそれでもうもやもやもする。もう首にしようかと思いよる時もある。
もう(ほんに?)逃げたいと思うようなこともあったけれども、この頃ではそれがなくなったとこういう。あっても、はー自分がこまい証拠とすぐ思う。ね、そうして自分というものを、豊かに大きゅうしていきよる。だからそこにおかげが大きくやたらないはずがないということを私は感じたんですね。
はー、やっぱりあれだけのハンデーなおかげを頂きよるということも、やはり親の徳だなぁと思うのですけども、その親の徳を信司さんがそのようにして、それをいよいよ自分のものにしていこうとつとめておるところが素晴らしいじゃないですかね。
私共の行く手には怖いものはない。困ったということもない。ね、例えば、というようなことが段々分かってくるところにです。困るとはいわんで済む、もう一生私ばかりは、困るとはいわんで済んできたと。
ね、と例えば、そこにですね、そういう一つのお互いの信心の筋金といったようなものがですね、もう私はおかげ様でくやまんで済むと。ね、(子供の御願い?)の時に自分自身の心がこまい証拠じゃとこう、思うてそれをくやまんで済む、大きな豊かな心に育てていこうとする精進。
してみるとです、なら子をくやまなければならないようなことやら、心にガクッとくるような事やらもです、また楽しいという事。その都度つどに心が豊かになり、清まって行き、大きゅうなっていけれるんですから。ね、有り難いことは(今後の?)信心はそこんところの、大きな豊かな心に、大きな豊かなおかげが約束されるのですから。
やはり心の上に感ずるだけではない。本当に楽しいことだとこう。そこにお互いが焦点を置いて稽古させてもらうのだから。ね、にも関わらず、もうそこに行き当たり。ここにぶっつかりして何時も心の中は怪我だらけといったようなね、信心では、私合楽の信心しとる値打ちはなかと私は思うですね。どうぞ。
梶原 佳行